hochinodake

おはよう のあと、おやすみ のまえ、こんなことを話したい。

角を曲がって春が来て

 そこの角を曲がったら春が来ている。がまくんとかえるくんがそんなことを言うから、4月もそこそこでわくわく角を曲がるようになった。それは二十歳を10ヶ月と3日過ごした今日も続いている。 

 角を曲がるときにどきどきして、ちょっと躊躇って、目をきらつかせている成人女性、嫌だなあと思いながら、でもこればっかりは仕方ない。春が来ているんだから。

 春が来ている、か。春が来るってどういうことなんだろうね。春が来るその瞬間っていつなのかな。角を曲がったら春が来ているかもしれないと期待を抱くようになってから15年、未だ春に「来たよ」って言われたことがありません。毎日角を曲がっているのに、春が来たことを感じないまま勝手に腕は茶色くなっていて半袖を着ている。春が来たって、そんな、だって春だなあって感じる瞬間っていろいろあるじゃないですか。沈丁花の花の香りが風に含まれていることに気づいた時とか、薄いシャツだけで散歩に出られた日とか。ちょっと地面から湿気のある匂いがした時とか。咲いてる花を見つけた時とか。それって春がもう来てるから気付けるんですよね。わたしはいつも春より遅い。私たちは自分を中心に考えているから、気づいた時に今春が来たと思い込んでるよね。違うよね。春っていつ来てるんだろう。誰も知らない。春は教えてくれない。春は黙って私たちに近づいて、私たちに隠れて私たちに気づかせる準備をして、私たちが気づいた頃去っていってしまう。春はずるいと思う。とっても素敵なのに、素敵だねって言わせてくれないの。

 今日角を曲がると、紫陽花が咲きそうになってました。紫陽花、あんたもそうだよ。大通りの端にずっとある植木。茶色のただの枝になったりただの葉っぱの集まりになったりして。これ、何なんだろうって気にも留めないようなただの、ただの植木。安全のためなのか、境界を示しているのか、あった方がいいんだろうけどなくてもいいんじゃないかって思わせるほんとうにただの植木が、5月を過ぎたある日から小さい花のお皿を作りはじめたと思ったら6月になったらボールになって。あ、これ、紫陽花だったじゃんって。6月になってやっと気づく。そう気づいてしまったわたしはもうあの植木を、ただの植木とは思えなくなってしまって、それは11月に見つける椿の花と同じように。