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おはよう のあと、おやすみ のまえ、こんなことを話したい。

2021.10.27今日も頑張れない

 人に愛を伝えられることはとても尊いことだよとか素敵なことだよとか、そんなことができるあなたは僕の希望だよとか言われたことがある。恋人同士、愛を伝えるということが大事で、存在が当たり前になってしまった家族にも、日々愛を伝えることが大事で、愛って伝えなきゃ伝わらなくて、毎日ごはんありがとうとかお仕事ありがとうとか伝えなきゃ伝わらなくて、だから愛って伝えようと努力しなきゃねという話。すごくよくわかるんだけどさ。なんで愛って伝わらなきゃいけないんだろうね。わたしがあなたを愛しているということ、なぜあなたは知っていなきゃならないんだろう。わたしは小さい頃から軽率に愛という言葉を使ってしまうところがある。やっと気づいたんだけど、わたしの、あなたのことが大好きだよというセリフには必ずあなたはどう?がセットだった。あなたがわたしを愛すのは簡単で、ただわたしがあなたを愛すればよかった。わたしに愛されていると確信できれば、人は簡単にわたしを愛してくれることを知っていた。わたしに愛されているということを条件にわたしを愛してくれる人。わたしはずっと条件付きの愛を求めていたんだなぁ。だいすきだよとわたしに言われて嬉しい人ってどれだけいるんだろう。嬉しくなってわたしを好きになってくれて、それで、なんなんだろうね。わたしはわたしが好きなだけで満足だよ。なんで愛って伝えなきゃいけないんだろう。なんであなたに、わたしがあなたを好きだということを伝えたいと思うんだろう。あなたがわたしを愛してても愛してなくても、わたしはあなたを愛してる。自分がそれを知ってるだけで充分なのにな。それだけでいいのにな。

 わたしも愛されることを条件に人を愛してる。

愛されるということ

 高校受験から逃げて大学受験から逃げて今は就職活動から逃げてる。口ばっかり達者で、それと共にそれに追いつく無鉄砲さ行動力(と言えばよく聞こえるけどまぁ言うたらノリと勢い)のおかげでそれっぽい言い訳は十分すぎるほど揃っていて、誰かから後ろ指差されるなんてとんでもない、応援されたり褒められたり。自信あるフリ頑張ってるフリ納得してるフリ優しいフリ寄り添うフリ博愛精神?いや薄愛精神。自分にも友達にも家族にも初めて出会った人にも先生にも嘘を吐きまくりその罪悪感を背負っていながら正当化してくれる周りの人間の好意に甘えて現状肯定のフリ。自分ではずっと正当化できなかったことをうまく良いように言いふらして正当化してもらって、現状それでおっけーみたいな、そんな楽なことってなくて。そんなふうに辛くて寂しい現実から逃げて、大きめのナイフで、いや錆びたノコギリで手首につけた傷みたいな、もう消えない、もう剥がれない、嘘笑いと嘘の愛とを口の両端、目の奥、喉に刻んで生きてきたのがわたしです。もう誤魔化せない。血も出なかったこびりついた色々、かさぶたを壊して血を流させてあげたい。

 小さい頃から他人からの愛を感じるのが不得意だった。姉や妹に向けられる愛情が羨ましくて、そっちに気を取られていたらいつのまにかわたしに向けられる愛を見失い、孤独になった。ひとり殻に閉じこもって考え事をして家族にわめき散らかして、否定には応じない、肯定も受け入れない。共感すんな。話だけ聞け。どうだわたしは考えてる。ひとりで、自分と向き合って、答えを出すことができる。他人からの恩恵で、他人からの愛で成立する他の誰かたちとは違うんだ。そう思いたかった。ただ自分がそう思いたかったんだと思う。

 きょう、母親に肩を抱かれてたくさん泣いてしまった。もっと愛してほしいと言った。もっと触れてほしいと言った。(こんな恥ずかしいことってないと思う。)わたしはそんなに上手く生きれる人間じゃないし、頑張れてないし、ずっと逃げてる自分が嫌で、逃げた先に何かあると信じることしかできなくてそれがすごく不安で、なのに頑張ってると、うまくいってると、見せることでしか自分の存在を家族の中にうまく置くことができなくて。強がりを見抜いてよ頑張ってるフリを見抜いてよ。先週の金曜の朝、社会の仕組みの上に嘔吐してトボトボと歩いて帰ったことを、昼からの授業に出られなかったこと、何度もバスに乗って降りて運転手さんに料金要らんから降りなって言われたこと、素敵なお兄さんが席を譲ってくれたこと、玄関を開けた時、笑顔で迎えてもらえない寂しさ、靴を脱ぎながらマスクの中に充満する胃液の匂いを必死で消そうとしたこと、その時繰り返された深い深い呼吸、髪の毛を整えて、目に浮かぶ涙を目を擦らずに吸い取って、力強くわざと足音を大きく鳴らして、家族の中に入っていったこと。気づいてほしかった。金曜は、帰りはいつも17時過ぎること。なんで今日は昼過ぎに帰ってきたの。なんでメイクがそんなに崩れてんの。なんで脚がそんなにパンパンなの。帰ってきて手を洗うより先にうがいをした。気づいてほしかった。気づいてほしくなかったけど、気づいてほしかった。それが愛だと思ってたから。わたしが言うこと、わたしがやってること、全部正当だと思うことは、愛することの放棄だと、そんなことを母に言った。今バスの中で、母を傷つけてしまったことを後悔している。銀杏BOYZのBABYBABYを聴きながら。久しぶりに外で音楽を聴いた。

 母は泣いてるわたしに、たくさん愛してるよということをとても簡単に、とても優しく、とても分かりやすく、教えてくれた。愛してほしいと言えるくらい、愛されてることに気づいた。きっと、わたしは愛されてないんじゃなくて、愛せてないんだと思う。近頃のわたしは、周りにいる人間を何だと思って見ているんだろう。環境も、全部。わたしの世界、なんて言うけどわたしの世界はみんなの世界なんだよな。みんなの世界とわたしの世界が重なったところが色濃くなってわたしの世界に彩りを足す。いろんな人の世界、いろんなものの世界とたくさん重なることで、わたしの世界はより鮮やかになるはず。それを意識しちゃった途端、それは愛じゃなくなる。わたしの信頼する人はみんなわたしの壁になってくれた。わたしは壁に言葉をぶつけ、返ってきた自分の言葉に顔面を殴られ、たくさん怪我をしたし、たくさん気絶した。壁になってくれる人たちは、わたしを愛してくれてるはず。そんなこと分かってた。でもわたしは壁である以上、その人たちからの愛を感じなかったしわたしはその人たちを愛せなかった。愛されてないフリと愛しているフリは当然わたしの心をズタボロにしたけどどうでもよかった。わたし自身を後ろから見たとき、その後ろ姿はものすごく丸まってて可哀想で、すごく良かった。

 わたしに傷つけられたはずの母の顔を見ることができなくて、また逃げた。母はずっとわたしを抱いてくれて、でも謝らなかった。母は強いなと思う。母はこれまでの何も変わらない、確実な愛でわたしを抱いてる。きっとこれからも変わらないだろうと思う。母は傷ついたのに泣かなかった。すぐに泣く母が、泣かずに、子どもみたいに泣くわたしをただ抱いてちょっとだけ横揺れしただけだった。

 ずっとノリと勢いで生きてきたけど、あのときああしてなければ今こうじゃないもんな、ノリと勢い、あのときああしててよかったな、って軽く言った。母は、初めて泣いた。今、わたしがわたしを好きでいてよかったと言ってた。

 さすがに愛されすぎている。わたしはすてきな人たちに出会ったことで自分のこれまでをよかったと思えるようになっている。自分のことは一生好きになれないと思うけど、一生好きになろうと努力してて、そのそばに大切な人がいる。わたしを包む空気が、わたしはずっと愛しい。

2021夏

 2021年9月11日、夏だと思っていたのに金木犀の香りを鼻の奥に響かせてしまってそれ以来、金木犀に出会ってない。金木犀の香りはあまり好きではないけれど、金木犀とは過去に色々あって。わたしはもう金木犀を想うことでしかあの頃の自分も金木犀も救うことができないのでできるだけ思い続ける努力をしているわけですが、金木犀の香りはあまり好きではないよ。金木犀の香りはあまり好きではないので金木犀を見つけたいとも思わないしあの香りで思い起こされる美しい様々もないしでもなんか涙が出てきて金木犀を抱きしめたくなって、そして思いっきり息を吸う。あの時感じてあげられなかった、あの時してあげられなかったことをしてあげようとするんだよ。そんなの意味ないってこと、知ってるよ。この香りはあの時、わたしが感じるはずだった香りじゃないのは当たり前のこと。でもすごいよね、金木犀の香りって分かるもんね。

 わたしが今日なぜ転んだかと言うと、話は簡単で、銀杏のカチカチの実を踏んで割れた部分がわたしのスニーカーの裏に刺さったんですね。そしてもう片方の、地面についた方の割れた部分が地面のおしゃれなタイルに引っかかったというわけです。わたしの右足は銀杏によって地面に固定されて歩ませてもらえなかったというわけです。バス発車の予定時刻10分前、バス停まで2分。余裕で着くはずなのにわたしはなぜかダッシュ時と同じ勢いで右足を左前方に引き上げようとしてしまったのです。想像がつくでしょう。右足が固定されたら左足が後ろに滑るってことを知りました。前にあるはずだった左足はいつのまにか固定された右足よりもうしろ、空中で変な方向にぐにゃってたと思います。知らんけど。左足の挙動を認識できないくらい早かったのに世界はわたしにはスローモーションでした。バス停のベンチに座る犬を連れたおばさんがこっちを見てる。わたしは胸の前で腕を組んで、肘を前に出し、着地。一昨日から急に寒くなり始めて今日なんかすごい風強くてさー寒くてさーだから着てたカーディガン。中にも長袖。ご丁寧にヒートテック。お陰で肘無傷顔無傷。すっごー。ユニクロありがとう。カーディガンの肘部分、さすがにちょっとなんかなってる気がしたけど滑らなかったのでほぼ無傷。ありがてえ。ほとんど床に打ちつけただけのジンジンする肘を心配しながら、へそを覗き込むように組んだ腕の間に頭を沈めるとあら不思議。わたしの左足のつま先はついた肘のほとんど真横にあったのです。スローモーションで確実に捉えたおばさんの振り向く仕草、繋がれて隣に座る犬のアホ面。なのに捉えられなかった自分の左足の動き。すげー。左足はえー。

 ただただ右足を置いてってしまった、なんかの筋トレ中みたいな格好のまま、あまりの肘の痛さに動けなくなったわたし。横、ギリギリのところを通過する自転車、人の足。自分が小人になった気分だったよ。通り過ぎて行く人たちから自分がどんなふうに見えているのかとかどうでもよくて、わたしはあんたたちの顔見てないし。あんたたちだってお洒落な革靴の先を汚してるし綺麗なベージュのヒールの裏は真っ黒だった。自転車のタイヤには真っ黒になったガムの破片がこびりついてた。あんたたちに惨めに見えるかもしれないわたしの姿、わたしは惨めなあんたたちの足下を見てる。できるだけカーディガンの肘の部分を擦らないようにして片方ずつ丁寧に肘を上げ、ゆっくり手のひらをついた。タイルの床はとっても冷たくて、もう冬なんだと感じさせられてしまったよ。

 潰れた銀杏の臭い匂い。風に乗ってここまで届く金木犀の甘ったるい香り。混ざった時、冬になる。タイルについた手のひらには、銀杏と金木犀の欠片。

 2021年9月11日、今日は2021年10月20日。1ヶ月ちょっとの間に季節は2度移動して、吹く風はうしろへ、口に出た言葉もうしろへ、金木犀の香りもうしろへ。ただそこにあった今がうしろへスライドされて、過去になる。過去は少しずつカタチを変えて、わたしの中に、煙となって戻ってくる。煙は手をかざすと消えてしまう。わたしの過去は、わたしに触れたら消えるから、わたしはもう過去に触れようとは思わない。

 2021年夏。わたしはずっと忘れないよ。初めて痩せなかった夏。わたしはずっと忘れない。ひとりぼっちがいちばん孤独じゃなかった。孤独がいちばん温かかった。映画で泣かなくなった。映画で泣きたくなくなった。でも映画で泣いた。誰かが叫ぶ言葉に泣いた。誰かの涙に泣いた。痛む腕、熱い身体、自分の中にある欲と他から求められる色々。全部、ぜんぶ感じたかった夏。感じられなかった夏。誰のことも好きじゃなくて誰からも好かれなかった夏。Aqua Timezの虹、西野カナのトリセツ、湘南乃風純恋歌GReeeeNのキセキ、嵐のLove so sweet。馬鹿にしてた小学生のわたし。カラオケで大声で歌って泣いた2021夏。

 この夏21歳になったわたしは、夏を嫌いになり秋を感じないまま冬を迎えようとしている。こんな不誠実なことがあっていいのか。いいよ。ふせいじつに、せいじつに。あとは毎日お風呂に入ることを目標に。

バス

 歩くのだるいな〜おっとラッキーちょうどバス来た乗ろ〜ってなった今。
小学生のわたしなら状況理解だけで嘔吐だろうな。あの頃は車内アナウンスを脳内再生しただけで酔ってた。今やバスん中でちいちゃい文字を打てるくらいになったよ。本は読めないけど。歌詞見ながら音楽聴くことはできる。やっぱスマホん中の文字は文字じゃないのかもね。文字の大きさは本もスマホも同じだし一気に見える分量も同じくらい。縦書きがしんどいのかな。分からんけど。

 3ヶ月前に21歳になって、まじか21歳かー見えへん見えへんありえへんありえへん言うてるし言われてるし。今思ってもえー21やば。と思います。自分の年齢いちばんかわいかった頃でストップしてる。

 あまり自分で大人になったな〜としみじみみたいなことがないし、大人になった感覚も自覚もないし大人の扱いされてないしなのに就活×2言われて  ???  な感じになってるんですが、わたしはバスに乗れるし毎週映画館に行ける。人の陰口を言わなくなった。パンフレットも買えるし今から友達とカフェモーニング。朝から1700円の支出。朝と昼の間に川を渡るし動画を撮ってインスタグラムのストーリーズに投稿したりする。大学の空き教室で友達と人間関係とか自分の状況について話すし病むし。1年半後からは自分で稼いで自分の力で命を保つことが求められるし、今から60年後の貯蓄とか何歳で死ぬとか死に方とか考えて準備することが求められてる。それが大人になるということなのか全然わかんないけど、大人になることを夢見させられているわたし(子ども)。でも集団登校してる小学生は私を見上げるし大通りを怖がるちびっこの手を引いて横断歩道を渡ったりする。小学校や中学校の他クラスの担任や部活動の後輩の名前は過半数忘れた。

 結局、時間が解決するのかな。わたしはずっと、永遠5歳。勝手に21歳になってて、でも別に、21って私にとってはなんともない。痛くも痒くも、嬉しくも悲しくも寂しくもない。なんともない。

角を曲がって春が来て

 そこの角を曲がったら春が来ている。がまくんとかえるくんがそんなことを言うから、4月もそこそこでわくわく角を曲がるようになった。それは二十歳を10ヶ月と3日過ごした今日も続いている。 

 角を曲がるときにどきどきして、ちょっと躊躇って、目をきらつかせている成人女性、嫌だなあと思いながら、でもこればっかりは仕方ない。春が来ているんだから。

 春が来ている、か。春が来るってどういうことなんだろうね。春が来るその瞬間っていつなのかな。角を曲がったら春が来ているかもしれないと期待を抱くようになってから15年、未だ春に「来たよ」って言われたことがありません。毎日角を曲がっているのに、春が来たことを感じないまま勝手に腕は茶色くなっていて半袖を着ている。春が来たって、そんな、だって春だなあって感じる瞬間っていろいろあるじゃないですか。沈丁花の花の香りが風に含まれていることに気づいた時とか、薄いシャツだけで散歩に出られた日とか。ちょっと地面から湿気のある匂いがした時とか。咲いてる花を見つけた時とか。それって春がもう来てるから気付けるんですよね。わたしはいつも春より遅い。私たちは自分を中心に考えているから、気づいた時に今春が来たと思い込んでるよね。違うよね。春っていつ来てるんだろう。誰も知らない。春は教えてくれない。春は黙って私たちに近づいて、私たちに隠れて私たちに気づかせる準備をして、私たちが気づいた頃去っていってしまう。春はずるいと思う。とっても素敵なのに、素敵だねって言わせてくれないの。

 今日角を曲がると、紫陽花が咲きそうになってました。紫陽花、あんたもそうだよ。大通りの端にずっとある植木。茶色のただの枝になったりただの葉っぱの集まりになったりして。これ、何なんだろうって気にも留めないようなただの、ただの植木。安全のためなのか、境界を示しているのか、あった方がいいんだろうけどなくてもいいんじゃないかって思わせるほんとうにただの植木が、5月を過ぎたある日から小さい花のお皿を作りはじめたと思ったら6月になったらボールになって。あ、これ、紫陽花だったじゃんって。6月になってやっと気づく。そう気づいてしまったわたしはもうあの植木を、ただの植木とは思えなくなってしまって、それは11月に見つける椿の花と同じように。