hochinodake

おはよう のあと、おやすみ のまえ、こんなことを話したい。

自転車

 自転車通学を2週間サボっていて、それは結構大きなことで、例えば京都市営バスに3680円支払わなくても良かったはずの金を支払ったということ。でもバスを使ったことにそんなには後悔はしていなくて、ずっとダメだなあと自分を責め続けてみたもののそこに生まれるものは何もなかったので。今日もバスだ、ダメだなあと思って通う学校はあまりにも楽しくなくて、いいんだよバス使ってもって慰めてくれる友達を鬱陶しいと感じた。わたしのICOCAから消えていく往復460円はそんなに軽いものじゃない。自転車を40分漕ぐ時間、その時心の中に広がる非現実世界と、目の中に入ってくる小虫で気づく現実、あの異世界移動の感覚を失くすということは、シャワーからお湯が出ないことよりももっと酷いことなんだ。知らないくせに、いいよ、なんて簡単に言うなよ。心の中ではブツブツと言っているくせに口から出るのはありがとうとかそうだよねとか。一緒に自分を慰めている。マスクで隠れているのに口元を緩ませて、唯一見えている目元にシワを寄せる。その間だけは全てが許されるような気がした。そうやって誤魔化して、でもそのしわ寄せは必ず心に。ほんとうにつまらない日々。慰めたくない自分を慰めてくれる友達と、一緒に慰める自分。情けなくて腹立たしくて、こんな場所、無い方がいいって。でもいつもはバラバラに帰る友達と今日はバスだぜなんて言ってキャッキャと集合し、自宅最寄りのバス停を通らない系統のバスに乗り、自宅を過ぎた先でマクドナルドの三角チョコパイのカスタードとポテトLを買ってゆっくり家まで歩いたり、落としてしまったポテトに駆け寄る友達を愛しんだり、そんなことができるのは少し嬉しかった。この嬉しみというのは慰めではない。その間、わたしは何も考えていなくて、ただ命あるわたしがそこに居ただけだった。

 今日は久しぶりに自転車通学をした。これは全然前向きな報告ではない。起きたい時間に起きられなかったから、仕方なくの自転車通学。バスでは間に合わないから自転車にまたがる他なかったのだ。

   初秋だと思っていたらほとんど冬の入りになっていて、でも自転車で切る風は、ヒートテックの極暖にカーディガンだけでも心地よく感じるほどのものだった。この心地よい風を感じなかった2週間のわたしをわたしはとっても気の毒に思う。でもバスの中の温さも悪くなかった。考えることもたくさんあった。でも正直、自転車通学することはメリットしかなくて、わたしはメリットのために自転車通学をしていたわけではないけれど。バスよりも早く学校に着くことができて、阿闍梨餅本店で焼き立ての阿闍梨餅を買うことができた他に、汗だくになって髪の毛はしめしめになり身体中痒くなって、汗ってたぶん身体のアブラが染み出てるものだから、たぶん痩せたし、ベチャベチャになるからメイクなんてしなくていい。マスクを外したときの空気のうまさ、洋服を通る風、それはわたしの装いになる。ハロウィンの仮装をした子供たちが走り回っていたり、公園で腹筋をするおじさんを見かけたり。小さい子はわたしにあいさつをしてくれる。小虫はついこの間までのとは変わっていて、より小さくよりたくさんになっていた。何がどうそんななのか分からないけれど大騒ぎで木と木を渡り飛び交う鳥たち。下京警察署の前。パンパンの駐輪場から自転車を取り出すのは結構大変なことで、協力プレイになる。たどたどしい敬語なのかタメ語なのかなんなのか、もう3年生、ほとんどが後輩なんだから好きにやれよと思いつつ、たぶん同学年の女の子と気まずい空気のままお互いを思いやり助け合う。

 自転車40分はわたしを異世界に連れて行く。わたしを何人も引き連れて、何人ものわたしの元へ。わたしが見ているものは現実なのか、今なのか、過去なのか、未来なのか、夢なのか、映画なのか、まぼろしなのか、何も分からないことを思い知らされる。わたしはわたしなのか、ホンモノはどこなのか、生理痛が酷い。ヘッドホンで頭を締め付けられ、吐き気がする。これはたぶんほんとうで、痛み止めを飲もうとしてるわたしもほんとうで、これから父の旧友が営むラーメン屋へ行く。これもほんとうで、藤原季節が出演してるぽにをみにいく。これもほんとう。何が嘘なのかわからない。でもこれらもほんとうか分からない。だから生きてたいと思う。自転車関係ないけど。